後悔というもの。

父が亡くなって1年がたった。その間、友人も2人立て続けに亡くなった。タラ・レバで考えても仕方がないとはわかっていてもやっぱり考えてしまう。そのうちの一人の友人は病名も分かっていて、入退院の繰り返しだった。

今となっては「もっとお見舞いに行けばよかったかも」と思うけど、もう性格も変わり、些細なことでほかの友人とトラブルになっていたので、私はそんなことで喧嘩別れしたくなかった。でもある日、入院してる病院の近くまで行くことがあって、ほんとにふっと「お見舞いに行っとこうかな」と思い病院に立ち寄った。その時にはもう治療のしようがない状態だったので、処置室に一人でいた。

その時は、今までと変わりなく接することができた。私が声をかけると「ハイホー」と今までと同じ返事。それが最後のあいさつになってしまったけれど・・・。

もう一人は、ほんとに突然だった。病名は聞いていたけど、そこまで進行してるとは思えなかった。入院したと聞き、余命1週間。慌ててお見舞いに行ったけど、もう意識もなくその1時間後に亡くなったそうだ。もっと話したいこともたくさんあった。遊びに行きたいところもあった。

たぶんこれを「後悔」というんだろう。どうすることもできないことを。その時は、もうそれがベストと思うけど、やっぱりもっと、あぁしとけば・こうしとけばって時間とともに出てくる。でも、その時には思いつかなかったんだもの。

人が亡くなるって、もうどうしようもないことなんだなぁとしみじみ思う。

私は自分が消えることを考える時期も長かったけど、その時はほかの人がどう思うかなんて考える余裕もなかったな。

ま、そんなもんなのかもしれないけど。


 人の脳はアップデートし続け「最善を」と考えるらしい。ならば生きているうちは【後悔】というものはついて回るのかもしれないな。なにがベストかなんてわからなくても、ベターであることを考えていくしかないのかもしれない。

言の葉つづり

発達障害(自閉症・ADHD)、精神障害(鬱・PTSD・解離性障害)、身体障害(両下肢不全麻痺)、生活保護(辞退)、LGBT等の当事者で薬物依存、アルコール依存、ギャンブル依存だったこともありながらも表現者である私「もりもと」の言の葉つづり。

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